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2007年4月

セルティック優勝!

同点に追いつかれた後半。

試合終了間際、ロスタイムに中村俊輔のフリーキックからの劇的な決勝弾によりセルティック41度目のリーグ制覇達成!

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日本・トルコ友好秘話

 1890年(明治23年)9月16日、トルコ皇帝ハミル2世が日本に派遣した特使一行を乗せたエルトゥール号が、帰路、暴風雨に遭い、和歌山県串本町沖合で岩礁に衝突し遭難するという事故が起きた。
 この事故で、特使を含む518名は死亡したが、死を免れた69名は、地元民の手厚い救護により、一命を取り留めた。この時村人たちは、台風により漁ができなく、自分たちの食べるものさえ無くなってしまうという状況にあったにもかかわらず、非常時のために飼っていた、最後に残ったにわとりまでも、トルコ人に食べさせ介護したのだった。また、遭難者の遺体を引き上げ、丁重に葬った。
 この話は、和歌山県知事から明治天皇に伝えられた。その後遭難者たちは明治天皇の命により軍艦2隻でトルコに送り届けられた。このことは、日本中に大きな衝撃を与えた。
 この話に同情した「山田寅次郎」なる人物が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡った。 1892年4月4日、イスタンブールに上陸した山田は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト2世に拝謁した。山田寅次郎はトルコ側の要請で、そのままトルコに留まり、日本語を教えるとともに、日本とトルコの友好親善に尽くした。この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャ(アタチュルク)がいた。

 時代は下って、イラン・イラク戦争が始まった、1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から40時間後に、イラクの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかった。空港にいた日本人は、パニックに陥った。
 そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。タイムリミットの、1時間15分前であった。なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。この時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥール号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥール号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」

エルトゥール号遭難事件http://sisikaikan.at.infoseek.co.jp/607hamo/turky.html

フラッシュ晩はこちら→日本とトルコ

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大和心とポーランド魂

20世紀初頭、765名の孤児をシベリアから救出した日本の恩をポーランド人は今も忘れない

■1.ポーランドからのメッセージ■

     平成11年8月に、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年
    少女舞踊合唱団」が来日した。合唱団はヘンリク・サドスキさ
    ん(88)からの次のようなメッセージを携えてきた。
   
         20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。
        シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条
        件にありました。その恐ろしいところから日本に連れて行
        き、その後、祖国に送り届けてくれました。親切にしてく
        れたことを忘れません。……(合唱団は)私たちの感謝に
        満ちた思いを運んでくれるでしょう。日本のみなさん、あ
        りがとう。

     サドスキさんはさらに「一番大事にしている物を皇室に渡し
    て」と救出当時の写真を託した。「孤児収容所を慰問した皇后
    陛下(貞明皇后)に抱き締めてもらったことが忘れられない」
    と話したという。[1]
   
     20世紀の初めの孤児救出とは、どのような出来事だったの
    だろうか?
   
■2.せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたい■

     シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえ
    られたポーランド愛国者の流刑の地だった。1919年、ポーラン
    ドがロシアからようやく独立した頃、ロシア国内は革命、反革
    命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、
    混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーラン
    ド人がいたといわれる。
   
     その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。と
    くに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。
    せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願
    いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によっ
    て、「ポーランド救済委員会」が組織された。
   
     しかし翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に
    戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可
    能となった。救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことご
    とく拒否され、窮余の一策として日本政府に援助を要請するこ
    とを決定した。

■3.日本赤十字社の決断■

     救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は20年6月に来日
    し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請
    した。
   
     女史の嘆願は外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わ
    ずか17日後には、シベリア孤児救済が決定された。独立間も
    ないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考え
    れば、驚くべき即断であった。
   
     日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、
    決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオス
    トクを発って、敦賀経由で東京に到着した。それから、翌21年
    7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに22年夏に
    は第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来
    日した。
   
     合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療
    や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船によ
    り直接祖国ポーランドに送り返された。習慣や言葉が違う孤児
    たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけのがよいと
    考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーラン
    ド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしている。

■4.手厚い保護■

     日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の手厚い保護を
    受けた。孤児たちの回想では、特に印象に残っていることとし
    て以下を挙げている。
   
     ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯
    消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入
    れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人
    の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれ
    たが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしま
    って悔しかったこと、、、

     到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同
    情を集めた。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音
    楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に
    招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を
    絶たなかった。
   
     腸チフスにかかっていた子供を必死に看病していた日本の若
    い看護婦は、病の伝染から殉職している。
   
     1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援さ
    れてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児た
    ちを親しく接見され、その中で最も可憐な3歳の女の子、ギエ
    ノヴェファ・ボグダノヴィッチをお傍に召されて、その頭を幾
    度も撫でながら、健やかに育つように、と話された。

■5.「アリガトウ」と「君が代」斉唱■

     このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも
    哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り
    戻した。
   
     日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さ
    も考慮されて毛糸のチョッキが支給された。この時も多くの人
    々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。
   
     横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親
    身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗
    船することを泣いて嫌がった。埠頭の孤児たちは、「アリガト
    ウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを
    表した。
   
     神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念
    の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈
    りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。
   
     子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッ
    ドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの
    頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。
    その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。

■6.シベリア孤児の組織「極東青年会」■

     こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウ
    コフスキ少年がいた。イエジが17歳の青年となった1928年、
    シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となっ
    た。極東青年会は順調に拡大発展し、国内9都市に支部が設け
    られ、30年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたと
    いう。
   
     極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問
    した時、思いがけない人に会った。イエジ少年がシベリアの荒
    野で救い出され、ウラジオストックから敦賀港に送り出された
    時、在ウラジオストック日本領事として大変世話になった渡辺
    理恵氏であった。その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐
    在代理公使となっていたのである。
   
     これが契機となって、日本公使館と、極東宣言会との親密な
    交流が始まった。極東青年会の催しものには努めて大使以下全
    館員が出席して応援し、また資金援助もした。

■7.日本大使館が庇護したレジスタンス活動■

     1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、
    イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運
    動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ
    部隊と愛称された。
   
     そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤
    児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加
    し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。
   
     ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、
    イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。イエジ
    キ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数
    のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。
   
     急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院
    は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を
    兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人た
    ちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。
   
     イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを
    大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しま
    した」といって直ちに引き上げた。
   
     当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日
    本大使館には一目も二目も置かざるを得ない。日本大使館は、
    この三国同盟を最大限に活用して、イエジキ部隊を幾度となく
    庇護したのである。

■8.長年の感謝の気持ちをお伝えできれば■

     95年10月、兵藤長雄ポーランド大使は、8名の孤児を公邸に
    招待した。皆80歳以上の高齢で、一人のご婦人は体の衰弱が激
    しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりつ
    いた。
   
         私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢
        でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。し
        かしもうそれは叶えられません。
       
         しかし、大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、
        這ってでも、伺いたいと思いました。何故って、ここは小
        さな日本の領土だって聞きましたもの。今日、日本の方に
        私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残す
        ことはありません。
       
    と、その老婦人は感涙に咽んだ。孤児たちは70年前以上の日
    本での出来事をよく覚えていて、別の一人は、日本の絵はがき
    を貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、今ま
    で肌身離さずに持っていた、と大使に見せた。
   
     同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれ
    たお守り札など、それぞれが大切な宝物としているものを見せ
    あった。

■9.われわれは何時までも恩を忘れない国民である■

     シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹
    介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。
    そのひとつ、極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、
    「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題
    した礼状の中で次のように述べている。
   
         日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種であ
        る。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に
        存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児
        童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてく
        れた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘
        れることはない。・・・
       
         われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福
        な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自
        分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、
        髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとって
        ポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一
        度や二度ではない。しばしばあった。・・・
       
         ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわ
        れは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告
        げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれ
        たことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られてい
        る。・・・
       
         ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、
        最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持
        っていることを伝えしたい。
       
■10.大和心とポーランド魂■

    「何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、阪神大震
    災の後に、実証された。96年夏に被災児30名がポーランドに
    招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。
   
     世話をした一人のポーランド夫人が語った所では、一人の男
    の子が片時もリュックを背から離さないのを見て、理由を聞く
    と、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになっ
    てしまったという。焼け跡から見つかった家族の遺品をリュッ
    クにつめ、片時も手放さないのだと知った時には、この婦人は
    不憫で涙が止まらなかった、という。
   
     震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤
    児が出席した。歩行もままならない高齢者ばかりであるが、
    「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子どもた
    ちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救
    済の話を聞かせたい」と無理をおして、やってこられた。
   
     4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人
    一人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。75年
    前の我々の父祖が「地球の反対側」から来たシベリア孤児たち
    を慈しんだ大和心に、恩を決して忘れないポーランド魂がお返
    しをしたのである。

国際派日本人養成講座より

フラッシュ版はこちら 大和心とポーランド魂

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赤毛

やめようイジメ!

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有名ですが‥。

世界のCM【7.6】

Happy End ということで (´∀`*)

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中田浩二in情熱大陸

現在スイスのクラブ、バーゼルに所属する中田浩二選手。

日本にいるとなかなか情報が伝わってこないですね。

つい最近鹿島が中田浩二選手を呼び戻すなんてニュースがありましたが、本人も否定していますし、それはなさそうですね。

現在バーゼルはスイススーパーリーグ2位。2ポイント差でチューリッヒを追っています。

ぜひ優勝をしてほしいところです。

上手くすれば、CLでセルティックとの対戦が見れるかもしれません。

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世界のCM【5.13】

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温情判決≪介護のはなし≫

認知症の母親殺害事件

あなたの周りに困っている人はいませんか?

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ACLアジアチャンピオンリーグ 全南vs川崎F 1-3

川崎もアウェイで勝利してくれましたね。(´∀`*)ウフフ

オイラは川崎ファンではないのですが結構嬉しかったりします。

何故かと言うと、対戦相手の某国の翻訳掲示板に行くといまだに過去のガンバ大阪の歴史的6-0敗戦を言われるからなんですけどね。

スコットランドリーグやセルティックも中村俊輔選手がらみで、かなりコケにされています。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、という感じです。

これで少しおとなしくなってくれると良いのだけれど・・・ならないか、某国人だしw

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ACLアジアチャンピオンリーグ

浦和レッズ対上海申花。

結果1-0でレッズの勝利! ヘ(゚∀゚ヘ)アヒャ

それにしても世間的にはACLはぜんぜん盛り上がっていませんね。

優勝すればクラブワールドカップに出場できるとゆうのに・・・

ただそのクラブワールドカップ、とうとう開催国枠なんてものが認可されてしまいました。

欧州、南米、オセアニア、アフリカ、アジアの過酷な大会を勝ち抜いてきたチャンピオン達の戦いに、ただ開催国とゆうだけで参加できてしまう。こんなものは大会の威厳を下げるだけで意味が無いと思うのですが・・・。

おそらくは商業的な理由だけでの開催国枠。次回開催国は日本ですが、仮にもし今まさに行われているアジアチャンピオンリーグで浦和と川崎が敗退した場合はどうするんでしょう?

開催国枠なるものでどちらかのクラブが出場してしまうのでしょうか?

ACLで日本のクラブが優勝したら開催国枠はどうするんでしょう?

もし開催国枠のぽっと出のクラブが優勝してしまったら?

どちらにしても世界中の失笑をかうのは間違いないのではないでしょうね。

恥ずかしいし、是非止めてほしい。

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石原慎太郎の思い出

都知事再選しましたね。

口を開けばいろいろと歯に衣着せぬ物言いで反感を買ったり、身内びいきなど問題も多いジジイですが、まぁ他の候補があれではこの人に入れとくのが無難じゃないかと考えて投票してきた。

ところで、石原慎太郎の話で「現代史の文水嶺」(文芸春愁)とゆうのがある。

他誌でもいくつか同じ話を語っているのだけれど、彼の少年時代の体験談で少年だった石原慎太郎が空襲警報を受けて、下校の途中に米軍の艦載機に襲われる話だ。

終戦間近。ほとんど抗戦する戦力がなくなっていた日本の国土と空を米軍は我が物顔で跋扈していた。米軍戦闘機などが気まぐれに日本の学校やどう見てもただの田舎の村落を機銃で掃射しているフィルムは現在もけっこう残っている。

↑ベトナム戦争もこうゆう映像がいっぱいありましたね。

そして少年だった彼も米軍機に襲われた。

敵機のエンジン音と機銃掃射の爆音を聞きながら、恐怖に駆られて走って畑の中を逃げ回る。

一度はなんとかやり過ごすのだが、直後にまた新たな敵機が現れる。今度は畝の低い芋畑で、逃げ遅れてやられたと畑の中で突っ伏して身をこわばらせながら死を覚悟すると、何故か撃たれない。

振り仰いで見ると、現れたのは日本の戦闘機で、その褐色の機体に描かれた日の丸が痺れるように鮮やかに見えたと・・・。たった今自分を襲った敵機を追って飛び去る思いがけぬ味方に、ふるいつきたいような激しい思いを抱いたそうである。

多分こんな感じだったのではないかと思う。

四式戦-疾風とマスタング-P51。

これを見るとちょっと悔しさがこみ上げてくるのだけど・・・。

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4試合ぶりに

セルティックがやっと白星を上げてくれた。

この勝利で早ければ、レンジャースが負ければタナボタで優勝決定。

自力優勝は次戦のキルマーノックに勝てばそれで決まり。でもアウェイなんだよなぁ。

やっぱりセルティックパークで優勝が決まる方を個人的には見たい。

まあ現時点でレンジャースと16点差あれば、ほっといても普通に優勝すると思うんだが。

やっぱりセルティックパークで優勝が決まる方を個人的には見たい。

後は中村俊輔がSPLの年間最優秀選手賞を取れるかどうかが気になるところ。

本人はGKのボルッチに投票すると言ってるみたいだけどね。

http://news.bbc.co.uk/sport1/hi/football/scot_prem/6548113.stm

You'll Never Wallk Alone ~ 君は一人じゃない。 

まだ聞いたことの無い方はどうぞ。

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自分が死ぬと思っていたのに

名無し三等兵 :2007/03/01(木) 22:10:24 ID:???
ネタ元を失念したからうろ覚えだけど…

ベトナム戦争中にベトナムのある小学校が米軍に誤爆された
事実に気付いた米軍はすぐに衛生兵を派遣
だが、教師全員と数人の子どもが死亡、生き残った子ども達も怪我をしていた
その中の1人の少女は特に怪我が酷くすぐに輸血をしなければ危ない状態だった
そこで衛生兵達は拙い現地語で子ども達に血を分けてほしいと伝えた
すると1人の少年が自分の血を使ってほしいと申し出た
かくして輸血の作業を開始したが少年は急に泣き出してしまった
衛生兵達はどこか痛いのかと尋ねたが少年は違うと言う
不思議に思いつつも輸血を続行していると、そこに南ベトナム軍の兵士も駆け付けて来た
彼は英語が堪能だったので衛生兵達は彼に通訳をしてもらい少年に何故泣いているのかと尋ねた
「僕は彼女を助けるためには自分の全ての血を分けなくてはいけないと思っていたんだ」
衛生兵は続けて尋ねた
「じゃぁ自分が死ぬと思っていたのに何故血を分けようと思ったのかい?」
衛生兵が少年に尋ねた
すると少年はこう答えたと言う
「だって彼女は僕の友達だから」

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あなた達のおかげで

名無し三等兵 :2007/02/25(日) 19:00:16 ID:3RDkUoqb
大叔父は中国大陸で通信兵として出征してたんだけど、ある村での戦闘の際に親とはぐれた中国人の5才ぐらいの男の子を連隊で面倒みたらしい。
男の子も行くあてもないし、すっかりなじんだらしく連隊が移動してもついて来たそうだ。
終戦を向えた時には、初めて会った村から、はるかに離れた地域だった。
その子にこれからどうするかと聞いたら、とりあえず村に戻ってみると言うので、連隊長が敵の部隊に頼みこんで「この子に危害加えるべからず」みたいな一筆を書いてもらいその子に渡したそうだ。
大叔父たちは当然、捕虜生活に入り、1年ほどたって拘留地が変更されて移動した。
新たな拘留地について数日たった頃、作業地で作業をしていたら鉄条網の外から自分達に呼び掛ける声、声の主はなんとあの男の子。
聞くと無事に両親と再会できたらしい。男の子の両親も、あなた達のおかげで息子は無事でした、とひどく感謝されたらしい。
それから捕虜となってる大叔父達の連隊のために、色々と差し入れ等をしてくれた。
そして復員の日、両親と男の子が拘留地外で待っていて連隊一人一人と握手をして迎えてくれたそうだ。
大叔父が無事、日本に戻ったのは昭和23年。

長文、駄文は勘弁。
大叔父は酒が入った時しかこの話をしないから、部隊名・地名等はちゃんと聞いた事はないのが残念。
御年90歳、いまだ健在です。

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浦和レッズ

あれはJリーグが開催してまだまもない頃。

当時はまだTVをつけるとあちこちのチャンネルでゴールデンタイムにJリーグを放送していて、局別に同じ時間帯にいくつものカードを流していたりして今考えれば夢のような時代だった。

そんな中、我が浦和レッズは低迷していた。

とてもとても弱かった。93年には9連敗とゆう記録を打ち立てて、泣けてくるほど弱かった。

スポーツニュースを見ていれば、ゲームの冒頭で「たまには勝てよ~!」と怒鳴るサポーターの姿が映り、

雑誌Numberでは「レッズに火をつけて」なんて特集が組まれ、

どこのチャンネルだか忘れたが、深夜に「浦和レッズを応援する番組」なんてものが放送され、

世間では「Jリーグのお荷物」とか「万年最下位」などと罵られ、

国立競技場のグッズ売り場の列では、レッズファンがベルディファンに「いいなぁ、お前らのチームは強くってよ。エェ、コラッ。」などと情けない絡み方をしていました。

その時代のJリーグ覇者と言えば読売ベルディ。

あえて読売と言うのは、その頃の日本放送のTV中継では川崎と呼ばずに読売、読売としつこく言っていたからなんですが、4チャンネルのベルディホーム中継では、あまりにも偏ったアナウンサーと解説者のベルディ贔屓の放送によくキレかかっていたもんです。

その覇者ベルディ対レッズの試合。

今ではうろ覚えで、正確な日時と試合内容は憶えていないのだけれど、確かレッズがベルディを0-1のビハインドを追う展開。

後半、試合終了のホイスッルが迫りくる時間帯で、カウンターから、レッズのFW水内選手が左サイドからゴール前にノールックで見もしないででセンタリングを放り込んだ。カメラがゴール前に切り替わる。

案の定ゴール前にはレッズの選手は一人もいない。「なにやってんだ~!」と喚きかけた瞬間、画面下より突然現れた岡野雅行選手がスライディングしながらシュート。ボールはゴールネットに突き刺さっていた。

その後、試合は延長戦でも決着がつかずに勝負はPK戦までもつれ込んだ末、ついにレッズの勝利で幕をとじた忘れられない熱いゲームとなった。

奥さんに棄てられていなければ、今でも我が家の押入れの奥深くに試合を録画したビデオが眠っているはずである。

そういえば岡野雅行選手。

フランス大会を決めたゴールも同じようなシュートからだった。

野人のニックネームで長髪をなびかせてフィールドを疾走して、ほぼその俊足だけで日本代表まで上り詰めたと思われる彼も気がつけばもうベテラン選手。

レッズも今や堂々たるJのビッグクラブになった。

ACLでもぜひ優勝してほしいもんだ。

Reds_okano_01

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インドネシア PETAマーチ

祖国防衛義勇軍マーチ
55 :真田雪村 ◆GikoZCWL36 :04/02/19 17:53 ID:FZRgMKrP

インドネシア「祖国防衛義勇軍(PETA=ペタ)マーチ」

“アジア、すでに敵に向かい、蜂起せり 己を捨てて全力を尽くす
連合国を粉砕せんと 玉散ることもいとわず
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
古きアジア 不幸に苦しむ 烈しき圧制に 幾世紀も忍ぶ
大日本 雄々しく立てり アジアを救い 我らを守る
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ…”

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今でもインドネシア独立記念日などのおり演奏されるPETAマーチの3番です。

敗戦時。日本に帰らずにインドネシアに留まって、インドネシア独立戦争に参加した多数の日本人がいました。

インドネシア国立英雄墓地に英霊として眠っている方々もいます。

そして現在にも繋がっています。

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■軍の配慮
313 :名無し三等兵 :05/02/26 15:32:49 ID:AOU4yMJp

(ネタが尽きてきているので、ちょっとスレ違いだが)
昨年、仕事でインドネシアに行ったときに、現地会社に駐在している
日本人に聞いた話。
98年にインドネシアで暴動が起きた時、事態を見守りつつ帰国するか
どうかを決めかねていたそうだ。
(既に空港は出国しようとする外国人でパニック状態)
その時、インドネシア空軍が「輸送機を準備したので、
必要なときはいつでも申し出てくれ」とのこと。
その会社の幹部に残留日本兵の孫がいて、軍が配慮してくれたらしい。
その日本兵は、インドネシアで英霊として祀られている・・・。

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かの国にも、忘れない人がいるんですね。

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戦争と・・・

一般的には第二次世界大戦。

オイラ的には大東亜戦争。

ほんの数十年前、日本はアジアを舞台に連合軍を相手に大立ち回りをやらかしました。

当時の日本軍の蛮行や残虐な話は枚挙に暇がありません。

でも、探してみれば意外な話や現在につながるいい話もけっこう出てきたりします。

そんな話を拾い集めていこうと思います。

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日本の戦績

55 名前:唐突ですが:02/11/23 15:30 ID:WpKCF4vn

昔、雑誌で読んだんだけど、ある評論家が(名前を思い出せない)
「近代日本の百年をひと言で言うと何ですか」って聞かれて
「二勝一敗です」
なんか目からウロコが落ちたような気がしたことを思い出した。

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今度やるときは絶対に勝ってみせます! といったところかなぁ。

それにしてもうまい言い方。

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がんばってくださいね。

雑誌に載っていたチュニジアから日本に来た学生さんの話。

僕はまだ日本に慣れていなくて、日常生活でも、日本語でも、悪戦苦闘の日々なのですが、いろんな場面で皆さんが「がんばって」「がんばって下さい」「がんばってね」と声を掛けてくださいます。

 実は初めは驚いたのです。よその国では、そうゆう経験があまりないからからです。

(中略)

「がんばって」と身近な皆さんに言われて、それがプレッシャーだったときもあるのです。こんなにがんばっているのに、自分はそんなにがんばっていないように見えるのだろうか?、と。

今はその言葉の意味が励ましの意味だけではなく、むしろ「見守っていますよ」という温かい気持ちの代わりの言葉なのだと解って来ました。

文芸春秋 私が愛する日本 より。

きっと誰かが、どこかで君を見守っている。

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洗車とは、スリリングな行為である。

それは何故か?

丁寧に心を込めて車やバイクを磨くほど・・・

それまで気がつかなかった小さな傷や錆を発見してしまうからである。

ブラシを片手にゴシゴシやって、ワックスをふき取る後半の山場のあたりで

あれ?とか、ここもか・・・見たいな感じで次々と発見してしまうことがある。

古い車だと発見すると、特に恐ろしいのが錆。

最初は小さなポツンとした点みたいな物ができて、見つけてしまったときは2ミリぐらいだった物が、しばらくたつと3ミリ、4ミリと、どんどん育っていく。

そんな愛車を見ると、まるで不治の病に冒された恋人を見るような悲しい気分になってしまう。

古いイタ車の内装をめくってみたら、見てはいけないものを見てしまった。なんて事はよく聞く話。(そんな時、財政状況によっては見なかったことにして、グリスを塗ってそっと元に戻しておきます。)

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遠目で見てる分には綺麗なんだけど・・・・

やっぱりいつかは全塗装か。

ところで、アルファ 8C コンペティツィオーネ (Alfa 8C Competizione)限定500台生産で、日本の割り当て台数は70台だそうです。

昔のジュリアTZ21を髣髴させるこのスタイル。

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価格(消費税込み)は、22,000,000円。

( ´Д`)=3

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ジミー・ジョンストン ”ジンキー”

セルテックの伝説のプレイヤー。

1944年9月30日、スコットランドに生まれる。1961年にセルティック・プレイヤーとなり、公式戦デビューは1963年3月27日。背番号7は彼のトレードマークでした。

”リスボン・ライオンズ”の一員として、1967年のチームでヨーロピアン・カップ戦の優勝を果たした時のスタープレイヤーでした。

”ジンキー”とゆうニックネームは機敏とかすばしっこい奴とゆう意味があるそうです。

身長5フィート4インチ(163センチ)。サッカー選手としてはかなり小さな身体にもかかわらず。テクニックとスピード溢れるドリブルを武器に敵のDFに果敢に挑んでき、何度倒されても立ち上がり、臆することなくチャレンジする姿がとてもファンに愛されていたそうです。

そんな彼が現代の医療では治療ができない病気、運動ニューロン疾患にかかっていると分かったのが2002年のことでした。

この病気は運動神経が冒されてゆく病気らしく、手足の痺れから始まりだんだんと身体全体に広がっていき、やがて声を奪い、最後には自分で呼吸をすることもできなくなってしまい、死に到る恐ろしい病気です。

犯されるのは運動神経だけらしいので、頭も意識もはっきりとしたなかで、いつしか呼吸ができなくなるのを待つしかないとゆう恐怖はどれほどのものだったか・・・

しかし闘病中のジンキーは希望と明るさを失うことはなく。

「この病気は治らない病気なんかじゃない。ただ治療の仕方がまだ分かってないってだけさ」

と言っていたそうです。

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ジミー・ジョンストン

2006年3月13日没

彼の最盛期の映像はこちらで観れます。

ジミー・ジョンストン・公式サイトhttp://www.jimmyjohnstone.com/filmclips/presentation.asp?presentation.id=13

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You'll Never Wallk Alone

君はけして一人じゃない。

これはサッカーの中村俊輔選手が現在所属しているスコットランドリーグのサッカークラブ。

The Celtic Football Clubのテーマソングとも言うべき応援歌のタイトルです。

クラブの創立はとても古くて100年以上の歴史を誇っています。

カトリックの神父によって作られたセルティックは、”ケルト人”という意味を持っていて、ケルト文化の象徴であるグリーンのチームカラーを身に纏ったクラブで、そのファン層の多くがアイルランド系。このアイルランド系の人々は、社会的に虐げられてきた過去を持ち、貧しい労働者階級が多かったらしいです。

クラブの存在自体は、サッカーのダービーマッチの中で”世界一古く、世界で最も熱い”なんて言われているオールドファーム・ダービーで知っていたのですが、それくらいであまり興味の無いクラブでした。

世界のサッカー3大リーグでもなく、同じイギリスで輝くイングランドプレミアリーグのおまけみたいな感じ。

ユニホームも緑の横縞模様で、横縞嫌いのオイラとしてはカッコよくみえなかったんですね。なんか田舎くさいなぁ・・・と。

それが中村選手移籍のおかげで変わりました。それがきっかけで興味を持ったんです。

なんとなくセルテックについて調べていくうちに、その歴史やクラブで活躍していた選手達を知れば知るほど面白くて、ふと気がついてみれば、今ではすっかりセルテックにハマッています。

そうなると嫌いだった緑の横縞ユニホームもカッコよく見えるから不思議です。

何よりもサポーター達が素晴らしくて、試合前のスタンドでは5万人の観衆が緑と白のマフラーを掲げて「俺たちがついているぞ!。」とばかりに”You'll Never Wallk Alone”を大合唱している光景はテレビで見ていても痺れます。

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You'll Never Wallk Alone

When you walk through a storm/Hold your head up high/
And don't be afraid of the dark/At the end of the storm/
There's a golden sky/And the sweet, silver song of a lark/
Walk on through the wind/Walk on through the rain/
Though your dreams be tossed and blown/
Walk on, walk on with hope in your hearts/
And you'll never walk alone 
you'll never walk alone.

嵐の中を一人ゆくときは/真っ直ぐ前を向いて歩くんだ/
暗闇を怖れてはいけない/嵐が去れば/
青空が広がり/ヒバリのすばらしい歌が聞こえてくるはずだから/
風の中を/雨の中を歩いてゆこう/たとえ夢破れようとも/
ゆけ、ゆけ、希望とともに/君はけっして独りじゃない

いつか、セルティック・パークに足を運んで共に歌ってみたい。

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長崎の原爆投下後の一枚の写真。

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「ナガサキ」の原爆投下後、弟か妹の遺体を背負い、次々と火葬されていく順番を唇をかみしめながら待っている少年。

 

写真を撮影した米従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏のコメント

「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。・・・10歳くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中にしょっています。・・・しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも足は裸足です。少年は焼き場のふちまでくると硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
・・・少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクをした男たちがおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。この時私は、背中の幼子がすでに死んでいることに初めて気づいたのです。男たちは幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がりました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気がついたのは。少年があまりにきつく噛みしめているため、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。背筋が凍るような光景でした。」

ネットを彷徨っていて偶然見かけた一枚の写真。

しばし言葉を失って、ただこの写真を見詰めていた。

この少年はこの時、何を想っていたのだろう。 考えをめぐらせてみてもオイラには何も思いつかない。

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靖国とゼロ戦と・・・

地下鉄の九段下の駅を出て靖国通りを九段下の交差点から市ヶ谷方面に坂道を上っていくと、右手に巨大な大鳥居がこれ見よがしに現れる。

そこが主に中国や韓国、南洋パラオまでその名を轟かす靖国神社の参道入り口だ。

靖国神社は非常に簡単に言うと、嘉永6年(1853年)古くは吉田松陰や坂本竜馬から大東亜戦争時まで、主に国を思って亡くなった人達が国を守る英霊として祀られている場所である。

・・・・・。

実を言うと、この事実を知ったのは、ここ数年のことだったりする。

靖国神社はわりと昔から参拝していた。主に元日、正月に仲間と一緒に行く所。

そうです。単なる初詣スポットだったんです。

初詣を靖国に決めた理由としては、わりと近い、そんなにメジャーでもなく夜店が充実している等と、そんなところ。

無知なオイラが賽銭を投げて何を祈願していたかと言うと、「可愛い彼女ができますように。」とか「宝くじが当たりますように。」みたいなことでした。

こんなお願いをされた”死んで護国を守る鬼になる。”と言って鬼籍に入り、合祀されている英霊の方々の胸中を察します。

キガンスル バショ ガ カンゼン ニ チャイマス ヨネ。

御利益が薄かったのも納得です。バチが当たらなかっただけでも儲けものかも・・。

そんな訳で、今は浅草寺に初詣に行っています。

クリスチャンなんですけどね。オイラ。

さて、靖国神社の本殿から右手のほうに進んでいくと、遊就館(軍事博物館)があります。ガラス張りの正面玄関を入ると、いきなり展示されているのがゼロ戦です。

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ラバウルから回収した三機分の機体を元に復元されたものらしです。

子供の頃。航空ショーで飛んでいるゼロ戦の雄姿を見たことがある。でも操縦していたのは金髪碧眼のおっさんだった。

ずいぶん昔に読んだ記事、(なぜかバイク雑誌でした。)どこかの親父さんが戦後のドサクサで手に入れたゼロ戦のエンジンを所有していて、今でも時々トラックの荷台にエンジンを載せて出かけて行っては火を入れて爆音を轟かせている。とゆう話を思い出す。

あのエンジンが現在も生きていれば飛ぶかな・・・

ロシアとカナダでゼロ戦のレプリカを作っているところがあるらしいが、やっぱり本物が良い。そして飛んでいる姿が見たい。

日本人飛行士の操縦で

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桜ももう終わり

  Sakuratidorigafuti05

その昔、

マンションを探して物件めぐりをしていた時、あるマンションで不動産屋のお兄ちゃんがリビングの窓を開けて「どうですここは?。春になるとそこの遊歩道は桜でいっぱいになって、とても綺麗なんですよ!。」

お兄ちゃんはニコニコしながらマンションの脇をはしる遊歩道を手で仰いでしめしてくれた。確かに季節になれば窓を開ければ手が届きそうな所に遊歩道の木々がいくつも立っている。それが決定打となり新居を決めて引っ越したのは、まだ11月の寒い時期だった。

だまされたと気がついたのは一昨年の春。確かに遊歩道は満開の桜なのに、どうゆう訳か我が家の横だけ植えてあったのはケヤキの木と一本の紅葉だったらしい。窓を開ければ一杯の桜とゆうイメージは儚い夢だった。チキショー

Sakuratidorigafuti02して今年は奥さんにせがまれて、千鳥ヶ淵の桜を見物に出かけた。

案の定の大混雑。駐車場を探すだけで一時間ぐらいウロウロと彷徨ってしまうしまつ、予想していたとはいえ、これほどだとは思わなかった。

それでもなんとか車を止めて、奥さんと義妹を連れて三人でつらつらと九段の坂道を登ってゆくと・・・坂の中ほどで見えてくる千鳥ヶ淵の満開の桜に二人は目を見張って歓声を上げていた。

Sakuratidorigafuti06千鳥ヶ淵緑道を散策でもしようかとなと考えていたのだけれど、なんと緑道は大渋滞中らしく武道館の入り口辺りまでの長蛇の列、”ここが最後尾”と書かれた看板を掲げたおまわりさんが入場制限をしていてあきらめた。

あっちも人、こっちも人。それでも靖国神社で途中買ったベビーカステラをかじりながら、桜を見上げて歩く気分は気分は上々だったよ。

Sakuratidorigafuti04

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